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槍と合気道19

このように、植芝合気道内における序列問題から起きた十段位の認定は、当然それを批判する者がでる。彼が植芝合気道総本部に居られなくなった原因の一つとなったのは、みずから招いた十段位発表の帰結であったのだ。彼の武道認識は戦後派武道家というべきか、あまりにも伝統ある武道界を愚弄したものにほかならない。彼が海外に配布した檄文については、これ以上、論究する気になれない。
 
以上が昭和50年7月25日発行の電電会報復刊第1号からの引用である。このコラムの筆者(鶴山先生のこと)は、譬喩(ひゆ)を交えた内容で独特の合気評論を書いた人である。
ここまで、「合気道とは何か」を説明するに当たり、戦後派合気道の実質的な創始者とみられる藤平光一氏にその焦点を置いて解説を進めてきたが、今少し同氏について紹介しておこう。
 
さて、昭和23年2月9日付けで新発足した財団法人合気会が発行したガリ版刷りの『合気会報』が私(鶴山先生)の手元にある。第3号(昭和25年6月1日発行)には、植芝康悦(後に吉祥丸と改名)氏による「昭和24年度事業報告」が掲載されている。この報告書の中に藤平光一氏の名前が初めて出てくる。この報告書には同氏の名前が公式記録されているだけでなく、植芝合気道が発足した当時の実績を知る上で極めて貴重な資料といえるので、補足説明を加えつつここに全文を紹介する。

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