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大東流合気柔術登場(中)

それは、進履橋の伝授を受けた際に、惣角がポロッと洩らしたか、少しだけ説明したとしか考えられない。江戸柳生系合気柔術のこと、すなわち大東流の全体系は皆伝の口伝であって、久琢磨にしか教えていない内容で、この時点では誰も知らないものであった。大本教幹部のために初公開した技法だが、その秘密の一部をしゃべったのかも知れない。いずれにせよ柳生流柔術という言葉が世に初めて出たのだった。
竹下ノートにも「柳生流の如く…」というメモが数カ所に残っており、盛平の技が柳生流柔術の技法を使ったものであることが確認できる。なお、竹下勇は下條小三郎先生の道場に習いに来て「幕末期に上野で斬り合いがあった、このとき幕府方は一刀両断の太刀を使った、と聞いている。」その技を教えてくれと語ったそうだ、これも大坪先生の証言であった。
今年(昭和60(1985)年)発行された「合気道教室(大修館書店)」は、富木系ということもあり、合気道と大東流合気柔術に関する歴史認識はしっかりしたものだ。が、この本においても「大東流柔術の改称にあたり、誰がその発案であったのか、(同書P11)」「このころ、「大東流柔術」が「大東流合気柔術」に改称したと推測されます。(同書P15)」と柔術を合気柔術と改称したとする誤った認識がある。

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