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合気柔術の技法15

植芝盛平も合気柔術が二種あることは知っていた。大正11年4~9月まで大本教幹部に指導するために公開された技法とそれ以外の技法という認識であったハズだ。

昭和6年には、「合気柔術」御信用之手として84か条として若松町で惣角より習った、これは一対一のマンツーマン指導でよく理解できていたかは不明だが、昭和6~14年までの間はこの中から記憶に残ったものをやっていた。このときの内容は、富木謙治がガリ刷りの本「武道練習」にして残した。

さて、大正11年に惣角を呼んだのは、武術の素人で、しかも当時中高年であった大本教幹部のために護身術を教える必要があったからだ。当時の官憲は柔道・剣道の練達者が多かったことから、対柔道・対剣道の護身法を求められていた。ここで、体捌きを主とする江戸柳生系合気柔術の入門コースを教えたのである。この入門コースは、本来、殿様や家老の子など世襲制で将来指導者になる者のためのものであった。彼らは、最初から第一線に出ないことから、それ向けの技(柔術第1・2か条)を習う必要がないとされていた。それより思考法の体験学習として合気柔術の陰陽虚実法を習うのである。
17歳で初陣というのが普通の習慣であるが、参謀本部付けか主君の側近として仕えるべき身分の者である。また、一軍の指揮官を任される場合もあった。そのために陰陽虚実の駆け引きを知っておく必要があったのだ。
この点、命令のとおり正々堂々正義の剣を主体とする足軽武士の対応とは、根本的に違っていたのである。
このような技法であったから、惣角は盛平に対し他への公開指導を禁じていた。で、やむなく柔術を簡易化した合気柔術を指導していた。

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