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戊辰の年の年賀状6-江戸柳生と鶴山先生-

(承前)武田惣角は新陰流兵法を全く知りませんでしたから、参考(原典)技法として新陰流兵法の勢法が伝えられることはありませんでした。これを分析するには、文献調査とは別に、新陰流兵法の実技を習う他なかったのです。鶴山先生は、後の展開を知らないまま、昭和40年代前半に大坪指方先生から新陰流兵法の指導を受け、さらに大坪先生の紹介で渡辺忠敏師(現「転会(まろばしかい)」宗主渡辺忠成氏の父)の指導も受けていますが、『図解コーチ合気道』の出版準備などで多忙なことから、中途半端なものに終わっていたのです。そこで再び、旧知の大坪先生が登場します。久琢磨から皆伝を受けて以降(昭和50年年代後半から)、本格的に新陰流兵法を学び始めたのです。大坪指方の指導と先生の研究成果が冒頭年賀状にある演武大会での説明演武につながるのです。

ただここで、鶴山先生は重大な事実誤認をしてしまったのです。それは、大坪先生から江戸柳生の刀法を習えると思ってしまったことです。大坪先生は江戸柳生家の伝書等資料の管理者でしたから文献資料には通じていましたが、実技は尾張柳生のものでした。先生は、江戸柳生の刀法を継承している下條小三郎門下でもあった大坪先生から江戸柳生を習えると、思ったのです。

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