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柳生宗矩の白紙の免状

「白紙の免状」で免許する、どこかでなんとなく聞いたことがある、と思います。この話、史実としてあるのです。しかもあの柳生宗矩が出した。このことに関する鶴山先生のメモです。
なお、被伝授者である細川忠利は、名門細川氏の肥後細川家、2代小倉藩主・初代熊本藩主(54万石)でありました。晩年の宮本武蔵を客人として受け入れたことでも有名です。第79代内閣総理大臣や熊本県知事を歴任した細川護熙(もりひろ)氏の祖先です。

寛永14(1637)年5月吉日付けで伝授された白紙印可状がある。
  「以白紙伝兵法之心
    柳生但馬守 宗矩(花押)
      寛永十四年丑年五月吉日
          細川越中守(忠利)殿    参」
およその意味は、兵法の極意は文字や言葉で説き伝えることのできないもの。貴殿には十数年にわたって「以心伝心」してある。貴殿にとっては、数千字の家伝書も白紙に等しいから、あえて白紙をもって印可相伝の証とする。
また、この白紙印可状には沢庵和尚の識語(余白に書き加えた語や文章のこと=裏書)が添えられている。
「昔年玄沙備禅師、以三丁白紙贈潙山、今以一紙之白即之、針頭削鉄耳、加毫返焉(沢庵花押)」
唐の時代に玄沙備禅師が潙山(きざん)禅師に三枚の白紙をもって仏法の心を伝えた、という故事をもとに、今宗矩公は一枚の白紙を忠利に贈る。この白紙はそのままで針頭が鉄を削るほどの意味を持っている。もし一筆でも加えたりすれば、印可の意味はすっかり失われるであろう。といった意味である。
ところで、細川氏と沢庵和尚の関係は深かった、初代藤高(幽斎)は沢庵の和歌の師、二代目忠興とも公私ともに親しく、三代目忠利は年齢も近く極めて親密、四代目光尚は沢庵に深く帰依、といった具合だ。家康に石舟斎を紹介した黒田如水と細川氏の関係も気になるところだ。
沢庵和尚と宗矩との関係では兵法家伝書の編纂に助力し、二人そろって家光の相談役として密接な関係を築いていた。ここに宗矩の弟子にして沢庵和尚とも親しかった忠利が関わったことで、政治的には島津藩(旧豊臣家臣)への牽制となり、徳川三代の安定への基礎固めに貢献したと言える。

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