見出し画像

大東流伝承の謎2

Q1:西郷頼母はなぜ武田惣角に大東流の伝承を託したのか
A1:明治も30年代に入ったころ、どこかしら、で噂を聞き訪ねてきた惣角に武術家としてのセンスを見いだし、失伝必至であった「名もなき武術」を後世に伝えようと思った。その理由は・・・
 ①会津人であったこと
 ②既に剣術家として大成していた惣角には基礎が出来ていること
 ③無学無字ではあったが、
  記憶力など極めて高い能力を惣角に見いだしたこと
 ④武者修行を中心とした放浪生活(定職はない)を送ってきたことから、
  今後の巡回指導にも対応できると見込んだこと
 ⑤「名もなき武術」であったからこそ、伝説を付加し形(趣旨)を変えて
 (由緒が不明な)惣角に負わせることが出来ると踏んだこと、であろう。

Q2:その間、西郷頼母は何をしていたのか
A2:明治以降の頼母の足跡は・・・
文久2(1862)年33歳 家老職を継ぎ・・・
明治元(1868)年39歳 会津若松城落城直前に藩主容保の命を受け場外に
           脱出、函館に向い函館戦争に参戦、そこで降伏後、
           館林藩において幽閉生活
明治2年40歳 幽閉解除後、東京深川の覚樹王院に移住
明治4年42歳 伊豆江奈村に移り、皇朝漢学教授から謹申学舎を開設、
       塾長に
明治8年46歳 福島県白川郡の都々古分(つつこわけ)神社の宮司に
明治11年49歳 宮司解任(「西郷隆盛謀反に組せし疑」のため)
明治13年51歳 日光東照宮禰宜(ねぎ)に就任、同年宮司となった
       容保公(当時45歳)の補佐役として
       幕府の庇護を失い、存続の危機まであった日光東照宮を基金
       を募り修繕し守った。
       55歳の時、志田四郎を養子に迎えている
明治20年58歳 日光東照宮禰宜を辞任、福島に帰り旧藩士ともに士族会を
       興し政治活動を行う
明治22年60歳 霊山神社宮司に就任、以後10年間宮司を務める
       この間も、福島師範学校の講師や陸軍大学校で講義をする
       など各方面で活躍している
明治31年69歳 武田惣角に大東流合気柔術を伝授する

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?