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葉隠と武蔵

佐賀に「葉隠」がある。宝永7(1710)年山本常朝(じょうちょう52歳)の草庵に田代陳基(つらもと33歳)が尋ね、その後、約7年間にわたって常朝の話を筆録して「葉隠」を完成させた。一般に知られている「葉隠」は「葉可久禮」とも書き、全十一巻七冊に分かれ「鍋島論語」ともいわれた。
「葉隠」は佐賀鍋島藩にあった武士道精神で、『武士道というは死ぬ事と見付けたり。二つ二つの場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。』で有名である。

一般に知られている武蔵像は絵や彫刻が上手で剣の外に一芸に秀でた剣聖であるが、徳川時代の認識ではこのような者は本当のサムライではない、とするものであった。
「葉隠」の中に、『芸は身を助くるというは、他方の侍の事なり。御当家(鍋島藩)の侍は、芸は身を亡ぼすなり。何にても一芸これある者は芸者なり。侍にあらず。何某は侍なりといわるるように心懸くべき事なり。少しにても芸能あれば、侍の害になる事と得心したるとき、諸芸共に用い立つなり。この当り心得べき事なり。』とある。また、次のようにもいう。『芸能に上手といわるる人は馬鹿風の者なり。これは、ただ一偏に貪着する故なり。愚痴ゆえ(愚か者だから)余念なくて上手になるなり何の益(やく)にも立たぬものなり。』すなわち、武蔵のような者は馬鹿風の者である、と。自分の技の向上(剣でも芸能でも)だけに目を向ける者ではダメなのである。
また、身だしなみに関して『五六十年以前までの士(サムライ)は、毎朝、行水、月代(さかやき)髪に香をとめ、手足の爪を切って軽石でこすり、こがね草にて磨き、懈怠なく身元をたしなみ、しかも武具一式は錆をつけず、ホコリを払い、磨き立て召し置き候、身元を別けてたしなみ候事、伊達のように候へども、風流の儀にてこれなく候』とあり、江戸時代中期以前の風習としてこのようであったのである。これは、士農工商の階級制度から来る当然の帰結でもあった。風呂にも入らず、数間先から臭った垢だらけの武蔵像とは明らかに違う。
次に、サムライの武勇に関して『武勇と少人(若い武士)は我は日本一と大高慢にてなければならず』とたしなめている。六十数人殺して天下無双などと自慢してはいけないのだ。
鍋島藩から見ると、武蔵はサムライの○○であった。(○○は、ご想像を)

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