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伊賀と甲賀7

徳川時代
寛永11(1634)年6月2日徳川家光は上洛のため江戸を出発した。家光は野州(やしゅう=下野国)から草津までの前駈を務めた芥川治郎左衛門(北山三家)・山中八郎兵門(柏木三家)らを7月9日膳所城(ぜぜじょう)に召し、伏見戦・関ヶ原合戦などの戦功について質問された。帰路8月水口城(甲賀郡)で召見、松平伊豆守らが上諭して大原氏(南山六家)以下数人江戸への転徒に従わせ、江戸に甲賀町を作ることとなった。この年、老中・若年寄の職制を制定した。
翌年には鎖国令を発布、武家諸法度を改正し参勤交代を制度化している。
 
寛永14(1637)年島原の乱が起こった。幕府は、当初板倉重昌(しげまさ:譜代大名)を上使として派遣したが、力量不足とわかり、松平信綱(智恵伊豆)を討伐のため派遣することとなった。この際、甲賀衆が志願して望月与右衛門(33歳)・芥川七郎兵衛(25歳)・山中十太夫(24歳)など10名が参戦することになった。彼らは信綱の命を受け、敵城の情報収集(城~堀の距離・沼の深さ・道の状況・塀の高さなど)し絵図で復命した。また、同じく命により敵の兵糧を盗み、攪乱戦を仕掛け一定の功をなした。

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