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西郷頼母と大東流4

さて、惣角は各処で述べているとおり、無学無字であった。昭和18年4月に84歳で亡くなるまでの間、自分で書いたものは一切存在していないという厳然たる事実がある。明治・大正・昭和の3代に生きた人として、また、一介の職人や人足ではない武術の先生として、お祝いの揮毫を頼まれたり、試合・指導をして歩いた行跡から見て相手方から芳名録への署名・流儀名の記載を頼まれることもあるハズだ。しかしながら、このようなものは一切ないのである。

惣角は、大正11(1922)年4~9月京都の綾部に大本教幹部の指導のため半年間滞在した。この時は惣角夫妻と時宗氏(当時6歳)の3名であった。この半年間に指導を受けた人の名は「英名録」に記載されている。この時の謝礼、時宗氏は300円(≑120万円)といっていたが、最近九州の砂泊兼基が出した本の中で、大本教の資料により4,000円(≑1,600万円)の謝礼を払ったと書いてある。惣角が署名捺印してあるというのである。しかし、惣角は字が書けないから、植芝盛平が代理で書いたものである。

惣角は「英名録」の外に、謝礼帳を持ち歩いていた。謝礼帳とは領収書のことである。一般的に謝礼帳は相手に発行するものであるが、惣角は武術家として金銭の潔癖性を守るため、相手に実際に払った金額を書かせていた。この謝礼帳には、金300円(≑120万円)の他、無名の新刀一振の記載があるだけである。この窓口も盛平である。では、その差額3,700円はどこにいったのか?

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