見出し画像

土方二百人と惣角一人の大喧嘩8

この事件は、明治初期の地方で起こったことであり、惣角の正当防衛を証言する証人もたくさんいたことから、惣角は無罪放免になった。

もちろんこの経緯の裏には、警察・裁判所等の役人たちに旧会津藩関係の出身者が多かったこと、自由民権運動の自由党弾圧事件に対し、政治的な圧力で判決をせまられ困っていた判事が正義・不正義を明確にさせる配慮もあったものと思われる。また、県の土木担当役人であった惣角の叔父とされる黒川内新十郎が、土工夫監視役の博徒に関する行跡・罪状など過去から現在に至る数々の資料を提出したことも幸いしたのであろう。片や20歳そこそこの将来ある若者、一方は凶状持。県令三島通庸の自由民権派への弾圧に対する客観情勢も幸いしたのかも知れない。

いずれにしても、明治10年代のこととはいえ、相手がいかなるヤクザであっても、私闘で十数人と渡り合って数名を斬殺したのに、無罪放免となったということは、当時の博徒勢力の暴力行為等が、いかに警察等当局の目に余るものであったか、が伺い知ることができる事件であったということだ。

この事件から数十年間は、惣角の無罪放免を不満とする博徒が全国網で、惣角の身辺をつけ狙うこととなった。このため惣角は旅館に泊まっても、常にその護身に気を配らなければならない宿命を負う羽目になった。通りすがりに、兄貴の仇と襲いかかってくる博徒、根強く執念深い団結心は博徒特有のものであるが、彼らにしてみれば、仲間を裏切らないこと、必ず復讐を果たすこと、が仁義であるのだから、それはそれで当然の義務行為であったのであろう。惣角が若い衆を投げとばしたというエピソードは山ほど残されている。博徒対惣角の因縁を知らない者は、惣角の身を守るための投技の真意を知らず、惣角をやたらに人を投げる者だとする伝説が生まれたのである。(完)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?