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第3回友好演武大会(中)

さて、合気ニュースが鹿島新当流を取り上げたのは、盛平(実質は富木謙治)が昭和13年に発行した『武道』の内容が、現在の植芝合気道の原典になっているからである。鹿島新当流を習ったのが昭和12年、それ以上は何も習ったことがない(同書には刀対刀の項がある)、この現実を踏まえ、盛平が昭和13年に同書で制定した技は盛平が創作したものであることを証明したのである。この日、斉藤がやった合気太刀は鹿島新当流の片鱗を残していた。

植芝本部(吉祥丸)が主張する合気道の一つの原典が後藤派柳生流柔術(その実は、柳生心眼流)とのことから、島津兼治が柳生心眼流を演武したが、これを見ても合気道とは全く結びつかない。

近藤勝之の大東流合気柔術、これは近藤式だ、編集長スタンレー・プラニンの意向(大衆化)があったのか、植芝合気道の原典のようなイメージに変更していて、古式の形といいつつ一本捕を演じているが時宗氏のそれとは全く違う。もっとも最近は植芝系の門人も増えたので少し改変したのかも知れないが…
いずれにせよ、大東流合気柔術・鹿島新当流・柳生心眼流が合気道のルーツであり、これらを踏まえ盛平が創始したとの結論に達して行われたのが第3回演武大会であった、ということだ。(この演武大会は3回で終了しています。)

ところで、井上方軒が語ったところによると、盛平は「わしがやったことがある柔道」といっていた、それは19歳の時、天神真楊流を半年習ったことで、受身が出来るようになった、とのことである。この受身が出来たことから惣角に見いだされ後に随行するまでになったのである。(当時、受身が出来る人はほとんどいなかった)

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