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合気柔術のはじまり2

直接の招聘依頼者であった浅野正恭氏も大正11年に京都府綾部にて、植芝氏らと共に武田惣角先生につき、大東流合気柔術の教伝を受けていた。また、正恭氏の弟和三郎氏は大本教の論客として活躍されていたため、同氏からの口添えもあり、昭和2年植芝氏は大本教を離れ上京することとなった。最初は海軍兵学校時代の仲間を中心に稽古し、練習場はそれぞれの自宅を提供するなど斡旋を続け、竹下勇や下條小三郎など海軍関係者が中心となり寄付金を集め、ついに昭和6年牛込若松町に道場を建立させた。この間、仮設道場を転々としたが、この時代初めて東京に大東流合気柔術の「カンバン」が立ったのであった。

昭和6年秋満州事変が始まった。翌年には、出口王仁三郎教主の発想で大本教の外部組織として「真の武は神より来る・・・武は戈を止める意であり、破壊殺傷は真の武ではない・・・真の武は神国を守り、世界を安らげ、人類に平和をもたらすものであります」とする大日本武道宣揚会を立ち上げ、植芝氏は会長となった。この頃には、大東流の「カンバン」を外し、皇武会合気柔術・合気武道などと称するようになった。

昭和15年5月植芝氏の甥であり高弟であった井上方軒(後の「親和によって他の一切に調和と愛を求める」とする親和体道道主)が、皇武会から分かれ、大阪方面で別派行動を創めた。

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