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大東流の三大技法(続)9

植芝が入信した大本教は、出口なおという盲目の老女が教祖で、御筆先(神がかりによる自動書記)と呼ばれていました。教祖は原始的なシャーマニズムでしたが、2代目御筆先出口すみの婿である出口王仁三郎が様々な宗教理論を導入し信者の幅を拡大したのです。大本教は、いわば国家主義的古神道を採用していたことから近代天皇制の思想的基盤と近しく当局にとっては目障りな存在でした。しかも、当時は「皇道大本」と称し「大正維新」を唱えていましたから、危険な団体だったのです。そんな大本教に学者、財界人だけでなく軍人、しかも将官クラスの大物がいたため、当局は無視できなくなったのでした。

そして、ついに大正10年第一次大本教事件が起こります。出口王仁三郎以下幹部が不敬罪及び新聞紙法違反などの容疑で検挙された事件です。この事件は、当局の筋書きに無理があったため不発に終わりましたが、マスコミは官憲に疑いを持たれたことを根拠に邪教として扇情的に報道し世論をあおったのでした。そのため、官憲に加え極右団体などに目をつけられることになりました。
そこで、「植芝塾」が注目をあびるのです。開設当初は信者のサークル活動程度のレベルでしたが、この事件をきっかけに官憲や右翼テロに対する護身法を稽古しようということになったのです。講師はもちろん植芝盛平です。

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