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謝礼問題4

ところが、盛平はこの約束を破ったのです。
大正14(1925)年から竹下勇海軍大将ら海軍関係者からの要請で何度か上京し、関係各所で指導していた盛平は、昭和2(1927)年には大本教から離れ武道家として東京に進出したのです。

惣角からは入門者1人につき10円の謝礼を取るよう言われていましたが、生活の面倒をみてもらっていた大本教の一般信者からは謝礼を取りにくかったことは想像に難くないし、東京で指導していても北海道にいる惣角にはバレないと思ったのでしょう。また、親分肌だったといわれる盛平は、惣角のように謝礼帳にいちいち記録することは面倒だったのかも知れません。
生涯、頼母の指示を厳格に守った惣角との違いです。

盛平は惣角に対し東京では門人はとっていない旨報告していたのですが、浅野中将から惣角に「植芝先生の東京での普及活動は順調で喜ばしい旨」手紙で知らせたことから、大変なことになったのです。
惣角がこの報告の食い違いを確認するため上京してみると、盛平が道場を開いて指導していることが判明したのです。惣角は、①約束の入門料が支払われていないこと、②「合気柔術」の看板を勝手に「合気武道」と塗り替えたこと、③門外不出の合気柔術を惣角が考える対象者以外に指導したこと、から怒ったのでした。

このあたりの事情について、鶴山先生が新道夢想流杖道師範清水隆次先生とともに甲賀流忍術第14世藤田西湖から直接聞いた話として、
「武田惣角先生は大東流合気柔術の名称を変えたことを怒って、上京する都度には、必ず当時芝御成門近くにあった植芝道場の玄関前で『植芝はどこだ!!表へ出てこい!』と割れるような蛮声で叫びちらし、誰も表へ出てこないと[合気武道]なる看板を引き剥がして持ち帰った。当時盛平の最大の後援者でもあった私(藤田)の家まで来ては、今日も裏口から下駄を懐に入れて逃げ出した、といって避難してきた。」盛平が逃げた先は様々だったようですが、藤田宅に行くことが多かったのです。
なお、藤田西湖(当時28歳)は政界の黒幕として活躍し、政財界へ盛平を紹介するなど後援者として、盛平を有名ならしめた一人でした。戦後も吉祥丸が合気道の存続に自身をなくし証券会社に就職した時「根性をたたき直してくれ」と盛平に頼まれ、半年ほど藤田先生宅に預けられたとのことで、植芝親子ともどもの恩人であった方です。

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