見出し画像

土方二百人と惣角一人の大喧嘩4

藤澤衛彦(もりひこ)著『明治風俗史(昭和4(1929)年)』によれば、「明治元年には斬髪の風習は一般的には洋学者・洋式兵隊連に限られていたように見えたが、明治5年に10%、明治8年に20%、明治10年に40%、明治13年に70%、明治15年に80%、明治16年頃に90%」とあり、その普及の順序は「各府県とも、斬髪党の急先鋒は必ず士族であって、次が町家、農家はずっと遅れた」のである。
 
惣角20代の一般慣習は、年老いた百姓以外は、チョンマゲや総髪の姿はほとんど見当たらなかったようである。土工夫たちの休憩時刻でもあったのか、監視の権威を高めるため、一丁こやつをからかってやろうかと、博徒の内数人の若衆が言いがかりをつけて取り囲んだ。
 
ところで、撃剣に対する博徒の思いとは・・・、
明治6年4月博徒の親分新門辰五郎の後援により浅草御門外で行った撃剣会(撃剣興行)は素晴らしい景気で、当時両国の回向院で大角力春場所の最中であったが、榊原鍵吉(直心影流、元講武所教授方)主催の撃剣会に押されて入がめっきり減ったといわれている。この撃剣興行の当たりぶりを見て、博徒の後援による類似の撃剣興行が各地で興った。博徒にとっては、相撲も撃剣も河原乞食という感覚を持っていた。それぞれ興行ができるのも俺たち仲間が面倒をみてやったからである、との自負があった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?