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大東流誕生期の人間関係(中)

時宗氏は大東流の伝承について、武田宗右衛門-西郷頼母-武田惣角と主張しているが、そんなことは人間関係上あり得ない。宗右衛門から西郷頼母では時代が合わないし、宗右衛門が内匠頭(うちのたくみのかみ=千石以上でないと付けられない名前)なら会津藩の記録に残っている侍であるハズだ。1700石直参の頼母と百姓の家柄の惣角とでは江戸時代なら全く接点はなかったであろう。

幕末期、軍事総裁に就任した松平容保の指示のもと公武合体政策の一環として、全国武術の統一を企図し各藩でも研究が行われたようだ。当然、会津藩では率先して取り組まれ、頼母が裏方として東北諸藩の協力を得て、後の大東流をとりまとめた。その後の戊辰戦争でもあっという間に東北21連合が形成されている。頼母がかかわっていたことの証明になるだろう。戦争末期、容保の命で頼母は城を出たが、東北諸藩に顔がきく頼母の存在価値が大きかったのである。このようなこともあり、頼母は戦争反対派(諸藩を巻き込みたくない)であったのだ。頼母の人間関係の深さがわかる史実である。

一方、官軍の人間関係は、幕末から明治期にかけて長州藩出身者の活躍がなんといってもめざましかった。歴史に名をとどめているだけでも、吉田松陰・高杉晋作・久坂玄瑞・木戸孝充(桂小五郎)・伊藤博文・山県有朋・井上馨等の名前が浮かび上がる。俗に薩長というが、西郷隆盛が引退してからは長州の世となった。

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