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会津紀行1

鶴山先生は大坪先生とともに、昭和59(1984)年10月21日から2泊3日の日程で「大東流の根元を探る」旅行に行きました。その時の紀行文を紹介します。

12時半ごろ、東北新幹線の郡山駅に着く。郡山は奥州街道の宿駅から発達した郡都であるが、今や宿駅の面影は全くない。典型的な地方都市である。昼食を中町の米沢牛を扱う専門店角海老(現在は京香)でとり、午後2時ごろレンタカーで出発した。二本松城に寄る予定であったが、昼食時間を取り過ぎたので、福島県伊達郡霊山町大石にある霊山(りょうぜん)神社に直行することにした。ここの二代目宮司が保科近悳(西郷頼母)であった。今回の旅行は原則的には、あくまで大東流の根元を探る目的であった。

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この東北総鎮護霊山神社の所在地が旧伊達郡(豊臣時代に伊達政宗が現在の宮城県・岩手県南部に転封されるまで、伊達氏が支配していた。)であり、明治29(1896)年に伊達安藝(あき)に教伝した旨英名録に記載(元仙台26,300石 陸前国涌谷城主 伊達安藝改名亘理胤正(わたりたねまさ)のこと)があるが、この所在地に関係があることが分かった。
西郷頼母がこの霊山神社の宮司になったということは南朝問題に関係があるらしい。明治維新で会津藩は賊軍にされた。その官軍であるべき天皇は北朝である。この南北朝問題は江戸時代から論争があったが、明治天皇は明治9(1876)年東北地方御巡幸のとき、霊山を望みうやうやしく黙礼され親王と北畠一門の霊を弔われ、これを契機に神社創建を請願し、明治14(1881)年に霊山神社の竣工創建がなったという。

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