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謝礼問題3

ところで、青年武芸者であった盛平(当時39歳)を有名にしたのは王仁三郎の指導と後援によるものでした。王仁三郎が武道導入に熱心であったのは、護身術が必要であったという現実的な理由の他に、大本教の信者に対し植芝の武道が大本の神が降臨してもたらされた神秘の武術というコンセプトで、宗教と抱き合わせの普及をもくろんでいたからです。王仁三郎は日本の古い宗教と武道に密接な関係があることを知っていてこれを利用しようとし、「日本再建のため信者を対象とする教主推薦の武道」として普及しようとしたのです。

これを受けた盛平も大本の神が降臨してもたらされたハズの武道が、新羅三郎が創設し武田家代々に伝承されたものでは困ることから、大東流ではなく自分が創設した武術ということにしたかったのです。流派名も王仁三郎から知恵を借りて「相生流」(あいきりゅう)と改名したのを皮切りに、次々と変えていったのです。以降この考え方は吉祥丸がさらに先鋭化させていくのでした。

盛平は惣角から大正11年に教授代理を許されるにあたり、入門者1人につき3円(≑12,000円)惣角に納入する旨英名録で約束しています。これは入門者1につき10円の入門料をとり、そのうち3円を惣角に納入するというシステムです。

謝礼問題3の資料

そもそも、惣角は明治31(1898)年6月以降大東流柔術の1回の講習謝礼は10日間で10円として設定し、最後まで金額は変えませんでした。これは西郷頼母の指示に従ったものと思われます。頼母の金銭感覚では1円(≑2万円(明治時代))=1両で、10両(≑20万円)払える身分の人に教えなさいという意味だったのです。大東流は江戸時代の世襲制を前提に管理者武道として構築されたもので、身分が高い人が習う技法でしたから、その身分に見合う人かどうかの判定は、社会的地位の他金銭的に豊かどうかによったのでした。

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