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大東流-武芸流派大事典4

昭和53(1978)年12月10日発行の武芸流派大事典より
「大東流(合気、柔、剣、二刀流)
大東流は合気道の源流である。その技法には、合気之術・合気柔術・柔術の三段階があった。これらはすべて、旧幕時代において会津日新館(藩校)の教科武芸であって、そのもとは太子流兵法・溝口派一刀流・柔術等の藩内武術の極意を、藩制に基づいて総合化したもので、藩士五百石以上の上士のみに指導したものであるという。この綜合武術に「大東流」という流名が付けられたのは明治31年、柔道・剣道の全国組織として大日本武徳会が明治28年に創立されたのを受けてのことで、当時日本・中国・朝鮮の三国を総称して大東圏と呼んでいたのにちなみ、この綜合武術こそ三国一のすぐれた武芸であるという見方によって大東流とさだめ、旧会津藩家老西郷頼母近悳(後の保科近悳)の指示によって武田惣角にこの流名を使用せしめた。武田惣角は字学の無い人だったため、保科は彼のために伝書の形式(原本)を作製して与え、且つ惣角がこの武術で自立できるようにと、この流の背景に「大東流は代々源家古伝の武芸として伝わり、新羅三郎義満にいたって一段と工夫を加えた。すなわち戦死した兵卒の屍体を解剖して人体の骨格を研究した上で、女郎蜘蛛が獲物を雁字がらめにする方法を観察して、合気柔術の極意を極めた」伝説を付け加えた。(続)

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