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大東流合気柔術登場(上)

武田惣角は大東流柔術本部長の肩書で「大東流柔術秘傳目録」や「秘傳奥儀之事」の伝書を発行していました。これは柔術とその応用技法を指導していた時期のものです。大東流合気柔術という名称は、英名録では大正11年9月15日付け大東流合気柔術教授代理植芝盛平に初めて登場します。なお、伝書では大正11年8月吉日付けで大東流合気柔術総務長の肩書で「合気柔術秘傳奥儀之事」を植芝盛平あてに発行しています。この辺りのことに関する鶴山先生のメモを紹介します。

合気柔術の誕生は、惣角(当時62歳)が持っていた英名録では、大正11年9月大東流合気柔術教授代理と書いてあり、伝書は江戸柳生の進履橋の巻物1巻(新陰流兵法の書)が授与された。昭和32年発行の吉祥丸の著「合気道」に、大正11年9月柳生系流柔術免許とあるのは、このことである。この伝書は、惣角が持っていたものを写し押印したものである。伝承は上泉秀綱-柳生宗厳-柳生宗矩-武田惣角源正義となっており、惣角の肩書は旧会津藩十余世としている。この伝書は表装がボロボロのもので、時宗氏によると「父が最も大切にしていたものの一つ」とのことであり、西郷頼母の経歴を考慮すると家伝の伝書を譲り受けたと、するのが相当だろう。ところで、進履橋には三学、九箇、天狗抄など勢法の名前と五ヶの習いなどの心得が記されているが、柳生流柔術の言葉は出てこない。盛平は新陰流兵法のことも柳生流柔術のことも全く知らなかったので、この時点で自身が創作したとは考えにくい。盛平がよく顔を出していた下條小三郎先生の道場(尾張柳生)でも、大坪指方先生の証言から盛平はここで袋竹刀を初めてみたことが証明されている。では、どこで柳生流柔術のことを知り、これを使うようになったのか?である。

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