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武田惣角先生直伝 大東流合氣柔術總傳のことⅠ

久琢磨がとりまとめた総伝11巻と略称される有名な写真目録です。

総伝11巻の1

作成に至る背景と経緯
昭和4年に世界恐慌が始まり、同6年には昭和恐慌、同7年には五・一五事件が起きるなど不穏な社会情勢でした。当時、朝日新聞社は社会主義的色彩が強い新聞だったので、右翼団体等から狙われていました。右翼団体が印刷所に乱入し輪転機に金剛砂をまくなどの妨害工作もあったとのことです。
神戸高等商業学校(現神戸大学)の先輩であった石井光次郎の斡旋で朝日新聞社に入った久琢磨は、大阪朝日新聞社の庶務部長兼航空部次長でした。久は学生横綱にして柔道5段だったことから朝日新聞社道場の責任者でもありました。久は自衛団を組織し、社員や守衛として雇われた元警察官などと稽古をしていました。

こうした背景のもと、石井光次郎の紹介で昭和8年ごろから植芝盛平を迎え大東流合気柔術の指導を受け始めました。熱心な門人であった久は、植芝から習った技を写真に撮って、説明を付け記録保存することを思いついたのです。また、昭和10年には自ら監督を務め記録映画「武道」を制作しています。
そんな中、昭和11年6月、武田惣角が自ら大東流を指導するために朝日新聞社道場を訪ねて来ました。惣角来訪の趣旨は、①自分は植芝の師匠であること、②植芝には技を十分に教えていない、中途半端だということ、③真に大東流を学びたいなら自分に従え、ということでした。
久が植芝に惣角来訪の件を報告に行くと、「それは間違いなく自分の師匠である。」と言いましたが、久の予想に反して、植芝は惣角のところへあいさつも来ず、顔を合わせようとはしませんでした。こうして、しばらくの間、午前中は植芝の指導、夜は惣角の指導という変則的な状況が続きましたが、植芝一行は何のあいさつもなく大阪を離れたのでした。その後、久は惣角に就き大東流の奥義を究めたのでした。

さて、惣角は「植芝は、まだ人を教える資格がない。今やっている先の技を教える。」と言ったので、久は、どんなことを習っていたか最初に見せ「最初(基本)から教えてくれ。」と申し出たが、「あれでよいのだ。」と言って、教えようとはしなかったそうです。また、久は「出征する者が多くなって来たので、出来るだけ実戦的なものを」とも依頼したそうです。
惣角は昭和14年3月26日久に免許皆伝を許しました。このとき武田時宗と佐川幸義を呼び免許皆伝に立ち会わせています。惣角は自らを宗家と名乗っていませんでしたから、久琢磨が唯一の皆伝者であることを両者に確認させる行為でした、また、時宗を立ち会わせて写真撮影もしたのでした。後年、某高弟が皆伝技の疑義について惣角に質問したところ、惣角は「久琢磨には全部教えてある。」と皆(山本角義、佐川幸義)に言っていた、とのことです。


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