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図表基準・花輪さん資料10

その頃あらゆる考え得る限りの戦闘術、あるいは伝統的な芸術を広めるために“道”という概念を加えることがとても盛んであった。(訳注:この項は、植芝の“術”から“道”に変わったとする説明に対するもの) もう一つの理由は、戦勝国が伝統的格闘術を教えたり稽古することを禁止したため。もし仮にこれを格闘術でなく精神運動による精神の発達と精神の健康を保つための技芸と言わなかったならば、戦後における植芝流の再開は不可能であったろう。このように戦後しばらくの間は、伝統的格闘技である一派の開始をアメリカ側は明確な理由のもとに許さなかった。合気道の精神的あるいは世界観としての背景を理解するためには、盛平が苦心して彼の技と、彼の抱く宗教観を結びつけようとしていたことを知ることは大事なことである。

フランス人のアンドレ・ノッケ(訳注:フランス柔道連盟の合気道コーチ)は、このことをこう書いている。「私は1957年のある晴れた12月の午後に日本を去った。大勢の友達が私を横浜の港まで見送ってくれた。そこにはハワイ経由サンフランシスコ行きの船が私を待っていた。出発の何分か前に植芝先生(訳注:盛平72歳)が私にこう言った『合気道はより強い方が当然に勝つというような二つの物質的な力の対決ではなく、二つの全く対立している精神的態度の完全な調和である。その時、啓発する一方がすなわち慈悲深い善良な方が、相手を悟らせることによって勝利を得よう』」(1981年クリストカイツ発行「合気道の道」19頁より)

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