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合気柔術のはじまり12

大東流合気柔術については、戦国時代の甲冑・小具足の痕跡さえもないほどに素肌武道化され、精錬精華されている。つまり実技分析から判断する限りでは、古くても二・三百年前から発達した技法ばかりで統一されているからだ。しかもその体系は、垂加神道で抱擁されている。このこと、すなわち大東流の組み立てについては、我が電電グループ以外は誰も気づいていなかったのである。無学者であり、かつ、無神論者であったともいわれる武田惣角には、とうてい考えも及ばぬ論理体系であるからだ。

大東流の技法体系やその構成を分析すると、神学者、多くの武術研究者及び東洋医学者たちの共働作業により初めてなされたもの、と考えられる。それにしても、武術諸流派の秘密を守るべき立場にある者が、互いの資料を持ち寄りディスカッションするということなど、過去の武術家の常識では考えられないことであるが、それは会津藩だからこそ出来たものである。大東流とは会津藩の総智をかたむけて、とりまとめられたもので、幕末の動乱期であったからこそ成し得たことである。尊皇攘夷で大きく揺さぶられた時期、若侍たちの脱藩を防ぐための「カンフル剤」として会津藩家老西郷頼母が総指揮をとり、とりまとめたものである。

大東流は幕末期に、五百石以上の武士に指導するためのもので、その当時「大東流」という名称はなかった。いわば、御式内として通用していたものである。これに大東流という名称が付され、また伝書が作製されるまでのすべてのモチーフは保科近悳のアドバイスによるもので、それまで武者修行者に過ぎなかった武田惣角を武道指導者として自覚・自立させこれら技法を世間に普及するよう託されたのは英名録にあるとおり明治31年である。(完)

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