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公武合体と大東流2

惣角は、明治31年から旧会津藩士 保科近悳(ちかのり=元会津藩家老西郷頼母)門人として、大東流柔術の指導を始めた。保科は自身の流派名を記していない、門人の惣角にだけ「大東流柔術本部長」の肩書きを与えている。

惣角は、その後大正11年に「大東流合気柔術総務長」の肩書きに変えるまで大東流柔術とこれを簡易化した合気柔術を指導していた。そして、大正11年に公開した合気柔術が江戸柳生系合気柔術と呼ばれるもので、合気道の原型である。この時、それを証明する伝書が授与された、すなわち、柳生宗矩の進履橋の巻物1巻(新陰流兵法の書)である。

江戸柳生との名称がつくということは、その技法を知っていて、伝書を持っている誰かがいた、ということである。それは、他ならぬ保科その人であった。保科は西郷頼母が本姓に復したもので、西郷家は代々家老を担う名門であった。西郷は、1830年に会津で生まれているが、父近思(ちかもと)が江戸詰め家老であったため、その多くを江戸で育ち教育も受けたのである。22歳で北大手門の番衆頭を務め、当時の江戸家老横山主税常徳(よこやまちから・つねのり)の下で仕えた、その後国家老になった後も江戸家老を兼務していた。そして、この間、松平家が習うべき江戸柳生(新陰流兵法)を習い、その証として進履橋の伝授も受けていたのである。

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