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大東流合気柔術登場(下)

また、「植芝盛平の合気道指導は、理論的な体系に基づいて系統的になされるという種類のものではありませんでしたから、その技法習得のためには、弟子のほうで反省工夫し、頭を働かせねばなりませんでした。この方面で最も進んでいたのは、富木謙治(大正14年入門)でした。富木は研究者(戦前戦後に大学教授)として戦前から合気道の体系化、理論家に腐心し、昭和8年の『武道練習』(植芝盛平著)の編集とりまとめに携わるのをはじめ、…(同書P20)」と、的確に状況を分析している。ただ、このときの「合気道」とは、大東流柔術を簡易化した技法が主であって、そもそも大東流柔術が「理論的な体系に基づいて」構成されていないので、やむを得ない側面もあった。が、盛平が江戸柳生系合気柔術の初伝技法(今の合気道の原形)を公開指導するようになっても、状況は変わらなかったことから、先の指摘は正鵠を得ているものといえる。
「東京に移ってから皇武館道場ができたころまでの数年間でもっとも注目すべきことは、植芝が柳生新陰流剣術を熱心に学んだということです。指導者の下條小三郎は柳生厳周より允可(許可)をうけた達人です。(略)
下條は允可の段階でないと教えない「無刀の位」を除くいろいろな形を手をとって植芝に教えたといいます。植芝は昭和13年に『武道』を著していますが、ここには柳生新陰流剣術修行の形跡を見いだすことができます。(同書P17)」とあり、一定程度の核心をついている。
さて、「合気で極める」「合気で投げる」等の言葉は武田惣角の言葉である。大正初期の門人に佐川子之吉(ねのきち=幸義の父)がいた。この人が残した黒表紙の手帳に「合気」なるメモが多く出ていると、佐川幸義氏が語っている。惣角は遅くとも大正初期の時点では合気という言葉を使っていたことがわかる。これは、大東流柔術第3か条以降は柔術系合気柔術の技法であり合気を用いるから、当然のことではあるが…、このあたりの言葉の使い分けは、大東流技法の構成上の秘密であり、惣角は語らなかったのである。

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