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合理化が進む植芝合気道(上)

植芝合気道の技の変遷について、合理化という視点でとらえたメモを紹介します。

植芝合気道は戦前のもの、戦後のもの、更に最近のものと、技のやり方基礎技法すら変わってきている。戦前の形は養神館の塩田剛三が残しているが、剛三氏が亡くなれば消えてしまうであろう。砂泊が戦後の当身のない合気道を始め、その後は藤平光一、最近では斉藤守弘となり、更に渡邉信之の新しい合気道が普及されつつある。
合気道とは何か、これら技法の変遷過程を調べ考えてみると面白い。どうしてこのように植芝合気の技法は変化するのか、というと、合気道技法は植芝盛平が創始したものと主張するからである。それぞれの門人達は盛平先生から習った技はこうだと主張し、そのことがいろいろな種類の合気道を出現させているのである。
「図解コーチ合気道」で植芝合気道の技はすべて大東流である、とすっぱ抜かれた植芝総本部(吉祥丸)は、どうあがいてもその内容を否定できないことから、逆に「合わせ」を用いだしてきた。いわく、盛平は惣角の一番弟子であった。しかし、柳生新陰流を研究して現在の合気道を開発した・・・。
その反面、植芝合気道としての論理の統一化を進める作業も展開している。新入会員がよく用いる言葉に「合気道はものすごく合理的である。」というのがある。合理化は体質の変換であって、盛平の説明する「和合の精神、愛の武道」と技法の一体化を研究している。その結果、渡邉信之が登場したのである。武道にあらず、スポーツにあらず、体操にあらず、気を極めるもののことだから。(続)

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