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大坪指方先生のこと9

昭和60(1985)年3月7日(水)大坪先生より横浜朝日カルチャーセンターの再度の電話があった。「江戸柳生の師範印可の伝書が出来上がっているが、郵送してもよいか?直接手渡ししたいと思っているが、風邪で今日も行かれなくなった。」とのことであった。風邪は昨年末から引いていて初めての寝正月を過ごしていたそうだ。昭和59年12月付けで尾張柳生の師範印可をいただいたが、小生はこの伝書は気に入らなかった。どうしても江戸柳生の伝書が欲しいのである。大坪先生は江戸柳生の研究者としては第一人者である。私も現在では江戸柳生の研究では第一人者になったと自負している。しかしその立場は研究者であってはならない、どうしても江戸柳生の師範印可が必要である。それを作ってもらった。虫の知らせだったのかも知れない。
翌3月8日の朝、大坪先生がなかなか起きてこないので、奥さんが新聞を持って起こしに行ったが、起きられなかった。額田記念病院に運び込んだところ、脳血栓だったそうだ。
昨年10月ごろから顔色と調子が悪かった、ともかく、数年前から太りすぎで、水気の傾向があったので私が注意した。甘いものが好きだったが、体重に変化がないから大丈夫と、私の注意を聞かなかった。稲益氏と、いつも後数年ぐらいしか持たないのではないか、と話していたが、その直感が当たってしまた。
3月17日鎌倉の額田記念病院にお見舞いに行った。見舞金3万円を包んだ。末っ子の嫁さんがいた。一週間後、駅前でメロンを買ってお見舞いに行った。この時は丁度奥さんがいた。未だ食事ができない状態だそうだ。

ところで、大坪先生は長谷川伸(*)の門下生であることを自負していた。
 *長谷川伸(1884~1963年)小説家、劇作家、新鷹会(しんようかい)
              などで多くの門下生を育てた。
世界一の長編小説とされる「徳川家康」を書いた山岡荘八の資料係としての出会いは、長谷川伸がやったとのことである。「徳川家康」の本の8割は大坪先生が調査したものであった。その結果、NHKの大河ドラマ「春の坂道」が放映されることになった。柳生流を全国に周知させたことを持って、大坪先生は山岡荘八に「心法印可」を出したとのことだった。この意味は、柳生宗矩を理解した人ということであるが、本当は柳生芳徳禅寺の橋本定芳老師が印可したものと思う。(私もこの和尚に印可された。)

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