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武田惣吉のこと2

慶応4(1868)年2月朝敵となった松平容保は会津に戻り謹慎していたが、藩内は武装防衛派が主流となり、城下の「歌舞伎、芝居又は遊女、売女御免にて(城内での活動禁止のため)、御城の外所々にて金銭を鋳立てお国中繁昌のこと言語に絶し」という状況下、歩兵組や他藩からの浪人を配置し四方口を厳しく固めていった。そして、同年夏本土決戦に至り会津藩国家総動員体制となった。この間、修験者に関して、次のような記録がある。
「依って会津郡中修験見禰山神社御警護組を作り、戊辰(慶応4)年4月朔日(1日)より25人ずつ10日替わりに相詰め候よう仰せ付け、相固め申し候ところ、仙台・米沢・庄内を始め出羽・奥州の領主会津味方となり官軍を防ぎ候の御決め事に相成り米沢・庄内は越後へ発向し、仙台・南部・二本松は白河へ向い官軍と争戦に相成り、猪苗代へ堅め不入儀になり、依って修験中見禰山御警へ引きに相成り、人数不足に付き修験方々も方面相堅め候よう仰せ付け、6月朔日修験53人大町通り木元宗治方屋敷へ相詰め、軍事方の教えを受け、即日御城に入り、鉄砲受け取り、2日に界臓院本山院代にて修験隊53人御蔵入り只見村へ相詰め候よう仰せ付け、坂下村より御津通りにて、6月5日只見村に着任候、銘々その内20人計り越後道八十里峠を越し参り候者も御座候」

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