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鶴山先生と久先生3

古武道保存映画制作の件
昭和53年9月ごろ、富木謙治氏が久琢磨を訪ねる。「合気道の源流は、大東流合気柔術なので久先生の技を日本武道館の記録映画に入れて欲しい。」旨要請があった。(当時、富木氏は古武道保存映画の選考委員であった。)これを受け久は、小生に相談することもなく大阪と連絡をとった。
記録映画は昭和53年11月3日(久琢磨の誕生日)に撮影された。唖然なり。
同年12月20日(水)朝日カルチャー最終日に大久保体育館の1階クラブで忘年会を行ったが、そこで久は記録映画の宣伝をしていた。
記録映画の作成が順調(昭和53年度8流派収録)なことを受け、昭和54年2月に開催された全日本古武道大会に、お披露目の意味もあり出演することとなり、宇都宮守と天津裕が参加した。久はこの演武大会のチラシと入場券を勝手に配布していた。
今後の久の行動に対し、小生も対抗措置を考える。

昭和54年4月19日朝日新聞社講堂で午後6時から記録映画の上映会があった。小笠原清信(小笠原流弓術宗家・日本古武道振興会3代会長)の説明の後、上映開始。
第1回 大東流合気柔術
①宗家として武田時宗となっている、②時宗氏主張の伝承をそのまま使っている、③時宗氏の稽古着姿(自信なし)、④伝書、⑤ワンカットで久琢磨の説明演武、⑥実技、一般にゆっくりと30本であった。

後世の我々からみると、久先生が鶴山先生に相談しなかったのは、鶴山先生に指導権を渡したくなかったからだと思います。武田時宗の立場とその関係、日本古武道協会の意向、富木謙治氏の立場等々諸事情を勘案した結果のことだと思われます。実際、総伝11巻の技法は、時宗氏は基本的に習っていない(惣角の助手の場合を除き)ものでしたから、記録映画の構成自体無理があるのです。一般の人はそのようなことは知らないし、興味も無いでしょうから問題にもなりませんが、このような事実の積み重ねによって真実と歴史は変わっていくのだ、と思っています。
なお、この映画はYouTubeで見ることができます。



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