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極意秘伝のはなし16

楊心流の見観門の伝に
「見観門とは、見るは見留めると申す字にて候。この心は見る心の先達つ時に、別けて目に遣(つか)う文字なり。人間の経絡に用いるときは、心経にて候。(中略)
唯一心が留まるゆえに、業(技)も身も心も大方病気出で、空身があると相見え申し候。」とある。

補足説明:『日本武道体系』第六巻の「見観門の項」大要によれば、見観門は18世紀後半に著されているが、筆者である佐藤次郎兵衛の楊心流の道統上の位置づけは不明である、とあります。また、同書は沢庵宗彭の不動智神妙録の理により、業や所作、心法等の世に処する態度を心の置きようを中心に論じたものである。見・観の二字の違いを吟味した上で、心を相手にも留めず、自分にも留めず、無念無心になることが、武芸のみならず諸芸における心の使い方であるとし、この心の動きにしたがって自由に動ける手足・身体の鍛錬が必要で「武芸は業の第一よりして、後に心法の所を自ずから知るが大心にて候。」とあります。
 
さて、引用部分「人間の経絡に用いるときは、心経にて候」の心経とは、心臓から出て、脇の下の極泉から小指に流れる経絡です。心臓は、「こころ」を納めている臓器とされていることから、「こころ」の働きにも関係しています。

見観門では、目から入ってくる映像情報を処理しないで受け取ることを「見」といい、情報収集しようとする意志をもって見ることを「観」という、これを心法という、としています。

敵の技に勝つには、自分にとらわれてはいけない、すなわち心・意識を自分に置いてはいけない、これを無我という。かと言って、敵に置いてもいけない。例えば、立合において、敵に意識を持っていくと、自分が崩れる。敵の手を捕らえようと思うと手に意識がいってしまう。では、意識はどこに向ければ良いのであろうか?どこにも置かず、無心・無住心がよい。無我無心無念、勝負にこだわってはいけない、そこにとらわれるから。とあります。

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