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尾張柳生と燕飛2

さて、連也斎が陰流の原典を研究しようとした時代は、四代将軍家綱の治世で、中国は清国(内家拳)の時代であった。筆者(鶴山先生)の分析によれば、このとき連也斎は清国の武官から内家拳の刀法を習っている。尾張柳生家にそんなことが出来たかというと、普通は無理である。宗冬と幕閣とのつながりがあったから許可されたものであろう。
ところで、三代将軍家光は寛永18(1642)年に海禁令を発布しいわゆる「鎖国」政策開始した。以降対外窓口は長崎と対馬に限定され、長崎ではオランダと中国、対馬は朝鮮国との通交が行われた。明清交替があったのは、鎖国直後で中国からの貿易船「唐船」の来航は頻繁であり、正式な国交はないものの中国人との接触は可能であった。家綱も唐国から道徳優良の僧侶を招聘することとして、黄檗山(おうばくさん)の隠元が来日している。このとき関与していたのが、筆頭老中の保科正之(秀忠の第4子、初代会津藩主)、譜代大名筆頭の元老(重臣)井伊直孝、老中松平信綱(知恵伊豆)らであった。家綱自身も隠元と面談している。こういったこともあり、中国との交流は盛んだったのだ。

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