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大東流の新羅三郎説(中)

さて、伝書に出てくる源義光は、平安時代後期の武将で「前九年の役」を平定した源頼義の三男である。義光は現滋賀県大津の園城寺(三井寺)北院にある新羅善神堂(しんらぜんしんどう)で元服の儀式を行ったことから、兄の八幡太郎義家、加茂二郎義綱という別名に倣って新羅三郎と称したのである。日本の歴史の中で平安時代は、日本文化の始まりの時代とされている。また、武士の始まりの時代、日本刀すなわち両手持ち陣太刀という独特のスタイルが発達した時代でもあった。弥生時代に中国から輸入された刀剣が主に祭器としての役割から本来の武器としての役割が区別され意識されるようになった。そして、武士集団の超越性を象徴する“日本刀”として位置づけられるのである。武田性からその先祖である武家集団源氏を原典とすることで、大東流が由緒ある武術であると、主張できるということだ。

「女郎蜘蛛の網の上にて、獲物と戦闘しついに雁字搦め(がんじがらめ)取る手練を、目撃して暗示を受け」たとする蜘蛛之巣伝も具体的な技法とは別に、惣角に歴史学を判りやすく説明する手段でもあった。大東流が徳川家を代表する武術を引き継いでおり、保科家も同じ源氏である。徳川家の御指南役であった新陰流兵法(江戸柳生)と小野派一刀流は三国一の武術であり、その中身を引き継いでいるのだ、と。西郷頼母は出身家老家の役割に歴代藩主の教育係ということもあったが、謹申学舎を開くなど自身も優秀な教育者でもあった。西郷の戊辰戦争前後の言動を批判的に見る者もいるだろう。西郷の考えは「まずお家大事、藩祖松平正之以降、引き継いできた会津藩の仕事は、徳川家の相談役であり、天皇家の相談役ではない」ということである。幕末の動乱の中で、養子であった藩主容保は会津藩の本来の役割(藩力)を超えやり過ぎであると、折に触れて指摘していたのである。しかし、このことがあったからこそ、大東流が生まれたのであり、会津藩の英知が今に伝わったのである。

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