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植芝盛平と合気柔術(下)

盛平が江戸柳生系合気柔術の中伝以降の技法を習っていないことは、惣角が久琢磨のところに来たとき、久から盛平伝の技法を見せられ「あれはまだ、教える資格がない、これより先の技を教える。」と語ったことで証明できる。惣角は久には「進履橋」を発行していない、初伝技法は盛平から習ったもので良しとしたからか、自らが教えたわけではないからか、中伝以降の全技法と大東流の全容(構成)を伝えたから必要なしと判断したからか、謎のままである。なお、惣角は時宗に自分がなぜ「進履橋」を持っているのか説明していない、皆伝の口伝に当たるからであった。
盛平が昭和5年まで教えていた江戸柳生系合気柔術の技法は、富木謙治(大正14年入門)によってとりまとめられ、1936(昭和12)年に満洲に渡り満州建国大学教授として合気武術を指導する際のテキスト「合気武術教程」になった。盛平はこれを底本として、後の「武道(昭和13年)」を発行した。
また、富木は昭和7年に「武道練習」の編集を行っているが、これは昭和6年から始まった小野派系合気柔術の技法をとりまとめたものだった。
盛平は昭和16年に惣角が仙台で高血圧症により倒れ半身不随になったと聞き、惣角は再起不能(当時の常識ではそれが当然)と見て江戸柳生系合気柔術の技法を復活させた。「今後はこの技をやるといって、入身投をやりだした」という話が残っている、それまでは入身投は公開されていなかったのだ。
塩田剛三はこのころ門人であったので、養神館には当時の柳生流柔術が残ったのである。

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