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江戸城での刃傷事件と大東流(下)

天明4(1784)年3月24日江戸城桔梗の間(ききょうのま)近くで、若年寄田沼山城守意知(おきとも)が新御番組の旗本佐野善左衛門政言(まさこと)から刃傷(佐野政言事件)を受け3日後に死んだ、33歳であった。下手人の善左衛門は伝馬町牢獄近くの揚座敷(あがりざしき)に入れられ4月3日28歳で切腹させられた。善左衛門は上州甘楽郡(かんらくぐん)西岡村と高井村(現富岡市)で400石の領地を持っていた旗本であった。役に就きたいと望み自分の家の系図を添え、意知に多額の金を贈ったが無視されたと思い刃傷に及んだ。この事件は浅野の刃傷と同じように下手人に人気が集まった。また、偶然それまで値上がりしていた米が意知の横死後下落し始めたので、善左衛門は「世直し大明神」と江戸の庶民から神様扱いされた。(翌年、また米の値段は上がった。)この刃傷事件の特色は意知の父が賄(まいない=賄賂)取りの名人として悪評が高かった老中田沼主殿頭意次(とのものかみ-おきつぐ)だからである。意知の死後3日目、意次は平然として政務を見たという。

江戸城で刃傷事件を起こしたのは大名ばかりとは限らない。文政6(1823)年4月22日西丸御書院番の松平外記(げき)が、城中御書院番所で同役の本多伊織はじめ3人を殺し、2人に傷を負わせてから切腹した。新参者の番士は古参の者たちから陰湿ないじめられ方をする。そのうっぷんが高じて外記は刃傷に及んだのである。
幕末に至っては、開国、攘夷と世情騒然とし江戸や京都では刃傷沙汰は多かったが、江戸城内での刃傷はない。大名も刀にかけるより、議論を戦わすという世の中になったからであろう。

これは、村上元三著の「江戸雑記帳」によるものだが、浅野乱心は他の大名事件と比較するとサムライらしからぬ(殺せなかった)もので、逆に上野介も刀さえも抜けなかった。武士の立場からみれば、享保10(1725)年7月28日松本城主水野忠恒の乱心に対し襲われた長府城主毛利師就(もろなり)が脇差(鞘のまま)小手を打ち脇差を落とした対応は立派であり。その後の処置も松本藩7万石は没収されたが、7千石の知行が与えられ水野の家名は残った。という実例があるのに、浅野長矩は即日切腹,赤穂浅野家の取り潰しに対する、不平不満が忠臣蔵の原因である。
いずれにしても、大東流が松の廊下の刃傷事件にからむということは、浅野内匠頭を取り押えた梶川与惣兵衛(よそべい=頼照)の実績のことであろう。
さて、冒頭の逸話、浅野長矩事件は元禄14(1701)年に起きたものですから、大東流の誕生とは無関係で惣角の戯れ言でしょう。ただ、地位の高い者が、同僚からも、茶坊主、奥女中からも襲われることがある、このような事実を知ることで、殿中に上がる者はこれら狼藉者、乱心者等に対応するための護身術の大事を理解し、心得とすべし、ということでしょう。

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