見出し画像

合気評論7

(承前)植芝盛平氏は、大東流初伝までの教授代理の資格を得ています。この実証とされるべきものは、現在の合気道の各技の名称にそのまま残されていて、1教から5教と呼称を変えても1か条から5か条まで、大東流合気柔術そのままの技をやっていることにより証明できます。大東流合気柔術では初伝・中伝・奥伝・秘伝と区分されているが、盛平氏の資格では教えることが出来なかった(習っていないから知らなかった)のです。

さて、植芝盛平氏は大正4年2月に武田惣角に入門し、大東流柔術の教伝を受け、教授代理の資格を得ています。惣角の助手として巡回指導にも随行しています。その後、村会議員として活動しましたが、大正8年年ごろ大本教団に入信し、綾部に「植芝塾」道場を開設し、大本教の組織を通じて著名な方に認められるようになったのです。大正13年2月には、大本教王国の建設を目的とした出口王仁三郎教主に随行して満蒙に向うも、中国官兵に捕まり九死に一生を得たのでした。この時、中国浪人たちから武田流相気之術なる存在を知ったのでした。この術は、北九州玄洋社の壮士の間で秘かに鍛錬され、頭山満の後援を得て、戦前は満蒙の地を駆け巡る中国浪人や壮士の間で普及されていたものでした。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?