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抜刀→太刀の長さの変遷 -長→短・短→長-

大東流合気柔術の教外別伝に合気杖があり、その組形の中に抜刀法が入っています。これは居合抜きとは違っていて、野試合の形で、野外において騎馬武士に真正面から斬り合いを挑み、馬上の武士、又は馬の脚を斬撃する刀法になっています。

さて、「史籍集覧」(しせきしゅうらん)第16冊の中に、徳川家が豊臣家を滅ぼした大坂の陣(1614~15年)で豊臣側の「五人衆」として戦った後藤又兵衛の配下だった長沢九郎兵衛が筆記した「長沢聞書」(ながさわききがき)があります。ここに「又兵衛常に申し候は、歩行(かち)の者は成程(なるほど=なるべく)刀は長きが善し・・・」とあります。
武田信玄が武器の得失を重臣たちに語らせた「武具要説」には、山本勘助が「塚原卜伝は、平常は2尺4寸の刀を差していたが、実戦では3尺の刀を用いた・・・」と論じたとされています。なお、これら2冊は、国立国会図書館デジタルコレクションで見ることが出来ます。
宮本武蔵も常用の佩刀(はいとう)は伯耆国(ほうきのくに)安綱の作で3尺8寸あったそうですから、ずいぶん長い刀だったといわれています。

このような長大な刀を振り回すには多大な体力を必要としますし、腰に差して常用するには適当でありませんでした。一般的に天文年間(16世紀中ごろ)の前後から武士は両刀を腰にする風潮になってきたため、従来の大太刀の使用が廃れ、打刀(うちがたな)といって太刀と脇差の中間の長さの刀が常用されるようになり、その代わり極端に短かった脇差がすいすい長くなってきたのです。これがいわゆる中太刀、小太刀で、これらの使用法を特に考案して後世の諸流派の基本を築いたのが中条流の直系である冨田流(とだりゅう)でありました。
大東流合気柔術には殿中居合として小太刀抜刀法が伝わっています。そして抜刀後の捌き、すなわち素手(手刀)化した技法には様々な変化展開の技があります。

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