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骨法の堀辺が来た(続)12

(承前)つまり、合気道・大東流の関係者が、合気道技法・大東流技法の誕生のいきさつ、その歴史過程、技法解説及びその認識程度について、本等の資料で自己の立場を主張するとき、私の本を鵜呑みにしたり、また、批判材料として取り上げることで、その人の合気道なり大東流の認識程度(実力)があからさまになる、という仕掛けである。この企画は十数年経た現時点で考えても、なかなか有効な対策であったと私は思っている。『図解コーチ合気道』発行の後、合気道界・大東流の関係者にいろいろな現象が出現して来た。今回の堀辺氏も穴に落ちた一人で、同氏を担ぎ上げた吉丸氏も同様である。

昭和53年初夏、古武道演武大会が開催されていた。
その会場内で数人の若い人がパンフレットを配布していた。文面には「大東流合気柔術の源流の初公開」とのキャッチフレーズがあった。その説明会に私の知人2人が出かけた。一人は電電東京合気杖道部の新庄孝夫(当時合気柔術四段・鶴山先生著『中国拳法』のカバー写真の人)、いま一人は大坪指方先生の門下にして「柳生心眼流體術」十世荒木堂宗家の武藤正雄さんであった。(続)

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