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柳生宗矩一族と松平信綱3

松平信綱と柳生一族には秘密に包まれた交友関係があった。
宗矩の門人としての信綱、信綱と十兵衛の軋轢、信綱と宗冬の関係である。宗矩は元和7(1622)年に家光の兵法師範となった。将軍をして師礼をとらせ、また、その側近の諜臣として重きをおかれたのである。
一方の信綱は家光の近衆として後に幕閣として、宗矩の上に位置づけられていた。六人衆(若年寄)になった信綱は、宗矩に大名・旗本,老中以下諸役人の政務・行状を監察させるため大監察(総目付・大目付)を命じた。宗矩の役割は従来と変わらなかったが、大名への試金石として公的な役職につけ諸大名達に知らしめた、ということであろう。実際、大監察の地位は4年間だけであった。

武断政治下で幕府の安定を図るため、幕府に対する謀反の意志や動きに関する情報は重要であった。宗矩門人(剣と柔術の師範)たちによる情報収集により大名の取潰し(改易)がなされたのである。徳川3代で改易された大名は198家であった。その後、宗矩は家康から三代にわたる功績に鑑みて1万石大名に列せられたのである。十兵衛は信綱配下でこういった役回りを引受けなかったようだ。しかしながら、幕藩体制を固め、4代5代…と継承するには、同様に情報収集が必要であった。

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