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軍事総裁 松平容保(下)

また、容保らの考えでは公武合体も旧幕藩体制のままで諸改革を進めていこうというものであった。300諸侯の支持を得るためには、彼らの身分保障が最大の条件であったからだ。世襲制に基づく上級武士・中級武士・下級武士の区分とそれぞれが必修とする、またそれぞれに見合う武術をどのように構成するのか、課題は多かったのである。諸藩にはそれぞれの諸派武術があり、藩内においても他流を侵してはならない。これを破るには布告だけでは無理で、諸派武術を超越するものを示さなければ、諸藩の武術家の納得は得られなかった。
いきなり全国統一は困難として、先ずは自藩から東北グループをとりこみ改革に着手したのであった。そこで、四方投を象徴技法とし、東北武士の心情をつかめるよう構成したのだった。
日新館においてワーキンググループによる作業が行われていた頃の、館長は井深宅右衛門であった。宅右衛門の妻八代子は西郷頼母の妹だった。頼母はこのころ蟄居(ちっきょ)中であったが、この作業に関係していたことは間違いない。なぜなら、江戸柳生系の体術が合気柔術の中心技法となっているからである。また、東北グループとは、庄内藩を始めとする東北21連合(後の奥羽越列藩同盟)のことで、その連絡調整にも江戸詰めが長かった頼母の顔が役に立ったであろう。こうして、会津藩の新武術(後の大東流)がとりまとめられたのである。頼母が宅右衛門の信頼を得ていたことは、明治になって、一刀流の秘伝八方分身の口伝が宅右衛門から頼母に伝えたことでもわかる。
容保の軍事総裁としての事跡はほとんど知られていないが、大東流が誕生するきっかけとなったことは間違いないであろう。

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