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大東流-武芸流派大事典2

昭和44(1969)年5月15日発行の武芸流派大事典より
大東流(合気、柔、剣)
大東流は清和天皇第六皇子、貞純親王に発する源家古伝の武術であるという。新羅三郎義満(源義家の弟)より、甲斐源氏武田家に伝わった。新羅三郎は幼時、近江の大東に居館があり、館の三郎または大東三郎と称したのが大東の称の出所であるという。天正10年の武田家滅亡より以前の天正2年に、一族の武田国次は会津に行って芦名家の地頭になり、三浦平八郎盛重と改名していたが武田家滅亡後は旧名にもどって、爾来、会津の領主となった蒲生氏郷・加藤嘉明・その子加藤明成・保科正之に順次仕え、合気の術として教えていた。一説-武田家の遺臣大東久之助が、この伝を継承して会津に隠れ、以後、大東流として会津藩に伝統し。藩の御留め業として、五百石以上の上士か、奥女中・側近だけに秘かに伝えられたといい、あるいは、武田家の馬場美濃守信房の影武者だった相木森之助以前は相気の術と称したとか、大東流はもと御式内と称されていたとか、いろいろ説かれている。いわゆる合気道は、流末の武田惣角と、その門人の植芝盛平によって世間に知られるようになったので、大正14年山本権兵衛伯邸で合気道を公開したのが中央進出の第一歩になった。植芝盛平については植芝流を、武田惣角については惣角流を参照のこと。

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