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大東流合気柔術免許皆伝 刀禰舘正雄

刀禰舘正雄(刀祢館、とねだち まさお)氏、明治21(1888)年4月20日~昭和18(1943)年1月27日は、久琢磨と一緒に免許皆伝を受けたことで知られていますが、その後数年で亡くなられており、鶴山先生も詳しくは知らなかったようです。

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おそらく、刀禰舘氏は久琢磨の上司として久と一緒に皆伝技法の伝授を受け(口伝は受けていない)免状をもらったものと、推測されます。
英名録によると、昭和11(1936)年 大阪朝日新聞社 取締役(営業)局長 刀禰舘正雄を筆頭に柔道五段久琢磨、柔道四段吉村義昭・・・以下5名とあり、同社関係の門人としては最も格上の方でありました。このあたりのことに武田惣角は配慮したのではないか、とされています。

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刀禰舘氏 左写真:後列左から2人目
     右写真:後列左端(顔の一部が切れている方)

久の追想録には「合気道の部員は私(当時41歳)をはじめ警備課その他の柔剣道の有段者(戦前の四段、五段)ばかりで、その中に入った刀禰舘さんは猛鶏群中にある白鶴(端正な容姿)のようであった。非力の上にもお年も初老(戦前では40歳のことを指していた)を越えて(当時48歳)おられたので、大東流合気道という関節の逆技ばかりの猛練習はさぞかしきつかったことと思うが、ご本人は一向にものともせず毎朝休まずに鍛錬された。」「(刀禰舘氏について)その熱意と上達ぶりを認められ、武田先生が最後に大阪を去られるに際し、大東流としては最高の段位たる、秘伝を免許され、教授代理を委嘱された。柔剣道の段位にすれば八段範士というところである。今生きて健在ならば、大東流宗家重鎮として私どもの上にいただくはずであるが、誠に残念に堪えない。」とあります。
なお、刀禰舘氏には、「旅歌集」、「住宅改良の諸問題」「地震と震災-その原因と予防」「新聞経営論」等著作が多数あり、同氏は武道家というよりは企業家にして文筆家であったのでしょう。

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