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合気評論16

ここで盛平翁が、「大東流柔術」のカンバンを「合気武道」に塗り替えたころの逸話を紹介しておきます。武術研究家として高名な藤田西湖先生に直接伺った話によりますと・・・

「武田惣角先生は、大東流柔術の名称を変えたとことを怒って、上京する都度には、必ずといって当時芝御成門近くにあった植芝道場の玄関前で『植芝はどこだ! 表へ出て来い!!』と割れるような蛮声でわめき散らし、誰も表に出てこないと、“合気柔術”なる“カンバン”を引き外して持ち帰ったそうで、当時、盛平翁の最大の後援者の一人であった私のところに、今日も裏口から下駄を持って逃げ出したことを報告に来た。」とのことでした。

ところで、藤田西湖先生は、昭和初期ごろは赤坂霊南坂に住まれ、藤田勇と称していました。当時の正解の黒幕として活躍された方であり、合気道に対しては随分と後援され、昭和初期における、盛平翁の政財界に対する紹介者となり、盛平翁を有名人たらしめた一翼を担った方であります。戦後も吉祥丸氏が合気武道に自信をなくし、サラリーマンになったとき、盛平翁から「根性をたたき直してくれ」と頼まれ、吉祥丸氏を半年ほど預かり、藤田先生ご夫婦から指導を受けられたこともありました。植芝親子ともども世話になったほどの方で、武田惣角亡き後、盛平翁の頭を押さえることが出来る人は藤田先生のみになりました。

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