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大坪指方先生のこと16

昭和63(1989)年9月23日(日)長谷坂下のマンションに初めて伺った。当初、月一回のお見舞い予定にしたがって、9月15日に伺う予定であったが、病院から退院した旨はがきが来たので、電話したところ、当日は子どもたちが来るとのことで、この日になった。今まで大坪先生との面談は30分が限界だったので、13時半に伺うこととし、帰りに私用の予定を入れていた。
この日は、「井上双角の天狗抄の研究が終了した」ことの報告が主体であった。カステラ一箱と「影の大老(徳永真一郎著)」上下二冊を持参した。
「松平春嶽は新陰流をやっていたか?」という質問を用意していったところ、大坪先生は「それはよい質問だ」と言ったが、真相は判らないようだった。後日調べてみると御三卿(吉宗が御三家のほかに将軍家の血筋を絶やさないために設置、田安・一橋・清水)の田安家出身であることから、ある程度知っていたものと思われる。
ともかく予定の30分が過ぎたので帰ろうとすると、私の脇を掴んで帰さない。・・・そこで手袋(厳周の遺品の鹿革の手袋、春風館に伝わる)の話をした。「厳長さんも延春さんも、手袋を使っていないが、あれは下條先生が造ったものですか」との質問に「そうではない」と返事が返ってきた。「厳周さんは手袋を使っていたのでは?」と聞いたところ、大坪先生は首を横に振った。・・・「下條先生は厳周先生から印可(皆伝)を受けたのでしょう?」と聞くと、また首を横に振る。これはショック!これまで下條先生は厳周先生から印可を受けたものと思っていたからだ。また、「厳周さんは、幕末期の尾張藩師範だったのでしょ」と聞くと首を振り「そうではない」とのこと。厳長師の「正伝新陰流」の記述を信じていただけに驚きの一言に尽きることだった。元治元(1864)年に厳周は21歳で家督相続(400石)したが、当時の伝位伝授の慣例からすると、皆伝ではなかったハズだ。また、大坪先生は「厳周先生は技を知らなかった」と語ったが、真意がよく判らない。(公開しなかっただけだと、思われます。)



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