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伊賀と甲賀4

『甲陽軍鑑』によると、武田家の忍者の運用については、次のようであった。
武田軍団の大将格(寄親)には、信玄から同心(足軽)として透波(すっぱ)が預けられ、その妻子は人質として信玄が預かる。透波は任地(敵地)から甲斐国境まで報告に戻り(国内には入らない)、その情報は寄親の家臣から寄親を通じて信玄まで伝わるという仕組みであった。武田氏の透波には、三者という三つの役割があった。三者とは、間見(遠目に敵を観察)・見分(近くで敵を観察)・目付(敵に紛れ込んで情報をとる)である。この他、夜間の軍団警護や行軍の際の偵察等最前線での重要な役割を担っていたのである。いわゆるゲリラ戦と諜報活動で名を馳せたのであった。

ゲリラ戦といえば…
大東流の伝説に「女郎蜘蛛を捕らえた」とあるが、これは古い時代、上代の盗賊は大和朝廷に属さない先住民の抵抗運動者に対する名称であった。討伐側は、土着の反対勢力(ゲリラ)を鬼または土蜘蛛と呼んでいた。新羅三郎が、女郎蜘蛛が得物を捕らえる姿を見て考えたというのは、素手または軽装武器をもって戦う先住民のゲリラ活動(後年の甲賀組などの戦法)を見ての発想であったのであろう。

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