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会津紀行6

この殿様の間(御成の間)は殿様専用であって、頼母も次の間で控えるのである。西郷家は保科家の本家であり主君はほとんど養子であった。

御成の間

ここから庭を見ると小石川後楽園や六義園のような名庭園造りを模しているようだ。

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ここに来て、養子着任のあいさつをしたのは当然であろう。殿様は嫁に来たのではなく婿に来たからである。頼母の居間は8畳間であったが、押し入れがないところをみると客間でもあったようだ。武器が収められている鎖の間にはなぎなたがあったが、これは婦人と娘用のものである。なぎなた術を習得していたのであろう。この部屋の鎧と客間にある鎧の形が違うのは客間のものは先親のものであるからだ。一族21人の自刃の間は、家族一同が集まる茶の間であったらしい。屋敷の隣に白川藩の精米所があった。殿様の間の隣のトイレ風呂場は公家の造りとなっていた、家族は当然使えないものである。
武家屋敷の裏手に早乙女貢(父が会津藩士であった作家)が手配した佐々木只三郎(幕末維新期の京都見廻組与頭で坂本竜馬殺害の指揮者といわれる。)の墓があった。専務取締役の案内でその脇から裏道に入り松平家の墓所に行くことになった。会津武家屋敷の裏山が松平家の墓所ということは、この山全部が松平家のものでその敷地の一部を借りて武家屋敷は造られたのである。二代目以降の藩主の墓は全部そろっていた。松平容保の墓もここにある。屋根を付け替えた墓もあったが、武家屋敷の売り上げから寄附されたそうだ、それが株式会社会津武家屋敷の目的であったことが判った。今後ここを観光名所にさせる腹があり、別に維持費の名目でお金を取るのではないかと思われる。大坪先生によると、墓の規模も日本一クラスとのことだ。



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