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沢庵和尚31

「心の置き所」「本心妄信」「有心の心、無心の心」のこと
心をどこに置けばいいのか。例えば、敵の身の働きに心を置けば、その身の働きに心をとられてしまう。つまり、どこかに心を置けば、そこに心をとられてしまう、要するに心の置き所はないのである。心を臍(へそ)の下に押し込んで余所へやらない、という方法もあるが、これも修行(稽古)の段階であった低いものだ。臍下(せいか)に心をとられるからである。
では、心をどこに置くべきか、との問いに私はこう答える。
「心をどこ処にも置かなければ、心は身体いっぱいに行きわたり、身体全体に伸び拡がっているから、手が必要な時は手の用をかなえ、足が必要な時は足の用をかなえ、目が必要な時は目の用をかなえ、このようにそれぞれ必要なところに心が行き渡っているので、それぞれ必要なところで必要な働きをする事ができる。心を一所に置いた状態を“偏に落る”という。偏とは一方にかたよった事をいう。正とはどこにも行き渡っていること。“正心”とは身体全体に心を行き渡らせ、どこか一方へかたよらないことをいう。心が一所にかたよって、他の方が欠けているのを偏心というのである。」 

本心妄信という事がある。本心というのは心が一所に止まらず、身体全体に延び広がった状態である。妄心は、これは何であろうと思い詰めて、一所に固まってしまう心で、本心が一所に固まってしまう、ということである。

有心の心、無心の心という事がある。有心の心というのは、妄心と同じ事であり、有心とは、ある心と読む文字で、何事にもある事の一方へ思い詰める心の事である。心に思う事が有って分別思案が生まれ出るので、有心の心というのである。無心の心と云うのは、「本心妄心」の本心と同じ事である。何かに固まるような事は無く、分別も思案も何も無い時の心、総身に延び広がって全体に行き渡る心を無心と云うのである。

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