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山本角義氏の口述(武田惣角の最後)

鶴山先生のメモから
武田先生はボロボロになった伝書を一本大切に持ち歩いていた。先生はこの伝書を教伝会で「我が家に伝わる合気柔術の秘伝書だ!」と説明していた。門人の誰もがその内容を一度見せてもらいたいと思っていた。

私は先生が亡くなる1か月前に東京の本社(日本火薬製造(株))に呼ばれていた。当時先生は私が管理人していた保養所を定宿としていた。東京に出かける前「先生はここにいた方が、身体のため安全でいいから、外に行かないように、直ぐ帰るから。」と言ったが、気詰まりだったのか、また巡回指導に出かけてしまった。そしてその途中昭和18(1943)年4月先生は青森で倒れ急死した。連絡先に私の住所が記してあったので、電報で青森の旅館に呼び出された。
遺品のうち、思わず第一にボロボロの巻物を見たが、それは大東流の伝書ではなかった。また、他の大東流の伝書は白紙だった。これは、「大東流には、形がないのである、つまり無なのだ。」ということを説明していると思った。
武田時宗に連絡し、時宗氏が駆けつけてきた。時宗氏に英名録や伝書類の遺品を渡し、形見分けとして羽織の紐と湯飲茶碗(家老にもらった浮き出し模様のもの)をもらった。

解説 別稿「武田惣角の二つの宝物」に記載した内容と同様のものです。
この新陰流兵法の伝書「進履橋」について、久琢磨は「古くだいぶ時代物」と言っているのに対し、山本角義は「ボロボロになった伝書」とハッキリ言っているところが面白いですね。
さて、西郷家は江戸家老として、また、藩主の子どもの養育係としての役割がありましたから、松平家が習うべき江戸柳生を特別に習える家柄でした。西郷頼母も番頭として江戸城内で新陰流兵法を習っており、進履橋の伝授も受けていたのでした。

また、この白紙の巻物のことはいろいろと脚色されて、発表されています。例えば、佐藤金兵衛氏の「合気叢談(あいきそうだん=いろいろな物語を集めたもの)」には、
「惣角先生もなかなかユーモラスなところがあった。極めて豪華な表装の、大部の秘傳の巻物を秘蔵されていた。門人達はこれを伝授して欲しくてたまらない。『先生、どの位修行したら、その巻物が伝授されますか。』
たまり兼ねた門人が無遠慮に質問すると先生はニッコリ笑って、
『コレか、これわナア一子相伝じゃから誰にも譲れんヨ』と答えられた。
ところが、晩年に至って、山本先生にこの十数巻に及ぶ秘伝の巻物を見せてくれた。驚くべし、この大部分の巻物はことごとく白紙だった。『アッ』と驚く山本先生に『極意も奥義も、自分で悟るんだよ、人に教わって出来るもんじゃない。今まで教えたことを一所懸命やれば体得できるよ』とねんごろに諭された。昔から奥義化物とよく言ったものだ。」とあります。

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