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合気道という名称

鶴山先生によると、「合気道」の名付け親としての立合者(実質的創始者)は、昭和17年当時財団法人皇武会の理事であった平井稔氏(日本光輪会=光輪洞合気道を主宰)である、としています。

平井氏は次のように語ったそうです。
「柔道・剣道が学校教育として実施されるようになってからの一般認識では、武道というと、防具をつけた竹刀剣道か講道館柔道の2種類に限定され、このままで行くと古流伝統各流の武術は将来全く忘れられてしまう。そこで、剣道でもない柔道でもない古武道(剣術・柔術・棒術・鎖鎌・槍術・手裏剣術・なぎなた等)の総称を何にするか大日本武徳会の役員と相談した。古武道に共通する用語の中で『気合い・合気』があるが『気合い』は見世物の気合術、また剣道・柔道でも使用されているので、『合気』を伝統武道の共通用語として使用することとなった。」

また、このあたりの事情について、富木謙治氏が「合気道の競技化」という一文の中で、「私が入門した大正の末から、昭和の初めごろは、合気柔術と呼んでいたが、まもなく合気武道と称し、戦時中、大日本武徳会による、全国武道界の統制に際して、柔道部に編入された。そのとき、合気武道の『武』を削って、合気道となった。」と説明しています。

ところで、平井氏の「剣道でも柔道でもない武道を総称したものが『合気道』である。」とする説明は、古流伝統各流の武術が失伝することが前提になっており、この論でいけば、道統を守っている各流派もすべて「合気道」に含まれることとなり、理論的に無理があります。この説明は、合気柔術を独立した一部門としたかったための理屈であって、富木氏の説明の方が実態に近かったのではないか、と思われます。

一方、大本教との関係が深く、大日本武徳会(平井稔氏)の合気道の考え方に不満を持った植芝守高(盛平)先生は、天眞合気武道、さらに武産合気と改称・改名しました。その後その後昭和23年になり財団法人合気会が認可され合気道の名称が確立したことで、大東流合気柔術から始まった流儀名の変遷が終了したのです。


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