沢庵和尚20
上の山に来て1年、沢庵は城主土岐山城守頼行のすすめ拒みがたく、質素な小庵が落成すると、そこに引き移り春雨庵(はるさめあん)と号し自ら揮毫した扁額を掲げた。
思ひねて 昔忘れぬ さよ枕
夢路露けき までの春雨
いかにせん 一夜かりねの さつ枕
おきていな野も 庵の春雨は
しづくだにも 降るとしられず
また、歌道の師と迎えた烏丸大納言光広の許へは
問人を なぐさめかねつ 花に風
月さへ暗き 夜半の春雨
と連歌を出している。
さて、大徳寺と妙心寺に対する幕府の処置は相当に厳しく、元和の法度以降、大徳寺のみで許された紫衣の僧は15人であったが、9人は遷化(せんげ=死亡)していたので、存生中の6人の僧の紫衣を脱がせてしまった。この結果、天皇の権威は地に落ち、後水尾天皇は譲位(退位)遊ばされた。
沢庵は上の山に来た後、畏れ多くも天皇の御譲位の前に
浅くとも よしや又汲む 人もあらば
我にことたる 山の水
と詠み出で、深く天皇を咽ぶ(むせぶ:こみ上げてきた悲しみに、息を詰まらせてなく)のであった
みだるなて 人をいさめる 折柄に
我が心さへ しのぶ文字ずり
の歌稿(かこう:歌の下書き)の夕もあった。
思いねて 昔忘れぬ さよ枕
夢路露けき まどの春雨
三首五首の詠むに従い、やがてその歌数は千首に達するに至ったという。