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大東流の三大技法(続)8

大東流柔術本部長という肩書きで大東流柔術を中心に教伝していた武田惣角は、大正11年に大東流合気柔術総務長という肩書きに変更しました。「合気柔術」すなわち江戸柳生系合気柔術を公開したからでした。この公開のきっかけを作った人物が植芝盛平です。

植芝盛平は、和歌山県出身ですが、明治45(1912)年に北海道白滝の開拓団団長として入植しました。その後、大正4年に吉田幸太郎(元新聞記者)に誘われて湧別の久田屋旅館で行われていた武田惣角の講習会に参加したのです。植芝は当時、武道の心得はほとんどなかったようですが、柔道の受身を少々知っていたことから惣角の目に止まり、その後の講習会の助手を依頼されたのでした。この時代、柔道を知っている人は稀で、受身が出来るのは貴重な人材だったのです。植芝は大正7年頃まで仕事の合間を縫って惣角に随行し大東流柔術普及の助手を務めました。
その後、故あって北海道の開拓団から手を引き、大正8年に大本教に入信、同9年には聖師出口王仁三郎の勧めで大本教武道教室「植芝塾」を開設します。

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